2015年6月18日 (高橋厩舎の日常)
僕はサンレイレーザーを思い浮かべる時、同時に矢野助手が思い浮かぶ。
レーザーが初めて入厩してきてから、引退するまで矢野助手以外が担当することはなかったし、いつも一番に厩舎に来て、レーザーの手入れをしていた。
そんなレーザーも矢野助手のバイク音を覚えていて、音がしたらいつも嘶いて、矢野助手を呼んでいた。
「ほんま、俺の事トモダチやと思っとるわ」「いつかレーザーで重賞取りたいなぁ。」 そんなふうに矢野助手は笑っていた。
傍から見ても本当に良いコンビに見えた。
けれども、その日は突然やってきた。
6月13日、左前脚の浅屈腱炎で登録抹消。
繋(つなぎ)の裏の部分が炎症を起こして、見ただけでそれがどういうことか僕にも理解ができた。
「矢野くん、レーザー、、、」 そう言うと矢野助手は何かを悟ったかのように
「いつかこうなるんやろなぁって覚悟してたから…」
と悲しそうに笑っていた。
「上半身は仕上がっとるやろ。いつでも競馬出来る体やわ。」
「この脚さえキレイやったら。。」
思い返せば、入厩当初からレーザーの脚はごつごつと腫れぼったく、軟腫が出来やすくて本当に苦労した。
毎日毎日、氷でアイシングして冷却剤を塗って。。
「朝出勤してレーザーの脚元を見るのが、いつもめっちゃ怖いねん。」
そう言っていた矢野助手は、休みの日でも厩舎に来ては、うずくまってレーザーの脚を冷やしていた。
そんな献身的な担当者に支えられて、サンレイレーザーは競走生活を全うした。
「ホンマ、よう走ってくれるわ」
「スターオーとかスザンナは気持ちの面で走ったり走らんかったりするけど、レーザーは違う。いつも競馬終わったらゼェゼェして力出し切って帰ってくる。頭が下がるわ」
重賞には14回も出走した。
マイルCSにも2年連続で出走した。
そういえば、初めて出たマイルCS(2013年)では唯一サンデーサイレンスの血が入っていないと話題になった。
名馬サイレンススズカが子供を残せなかったから、その弟ラスカルスズカの子供という事もあって、レーザーにはファンが多かった。
接戦を演じたマイラーズカップや毎日王冠での競馬を見て好きになってくれるファンもいた。
レーザーが高橋厩舎で走った3年余りはあっという間だったが、本当にたくさんのことを学んだし、厩舎にたくさんの財産をくれた。
レーザーが牧場に帰る6月13日の朝、最後のお別れをしに厩舎に会いに行った。
矢野助手が一人厩舎にいて、レーザーに最後の手入れをしていた。
2人だけの最後の時間…
ほどなくして馬運車がやってきて、矢野助手はレーザーを馬運車に曳いて行った。
「宜しくお願いします」
そう言うとレーザーの首筋をポンポンと叩き、最後のお別れをした。
そこからはもう振り返らなかった。
僕も矢野助手と話したいことがたくさんあったが、何も聞かずに厩舎をあとにした。
翌日のマーメイドステークス。
優勝したのは大外一気で差しきったシャトーブランシュだった。
嬉しくて嬉しくてしょうがなくて、その瞬間はよく覚えていない。
そのシャトーブランシュに調教で毎日跨り、パドックでも曳いていたのは矢野助手だった。
「シャトーブランシュがレーザーの分も頑張ってくれた気がして嬉しかった」
「色々な馬達の流した血と汗が厩舎の肉となり骨となっていくんだと感じた」
競馬後、矢野助手はそう言っていた。
僕は、頑張ったレーザーへの餞(はなむけ)だった気がしてならない。
不思議なことにブランシュを勝利に導いた鞍上はレーザーの手綱を最も多く取った藤岡康太騎手だった。
改めて競馬って凄いなと思ったし、心の底から感動した。
「康太くん、レーザーで重賞勝たれへんかった分、ブランシュで勝ってくれたわ。」
僕はそんなふうに思った。
最後に、サンレイレーザーを応援してくださったファンの皆様、厩舎へ応援メッセージをくれた皆様、そして厩舎に全て任せて下さり、温かく見守って下さった永井オーナーに心より感謝申し上げます。
武田